昭和56年09月23日 秋の霊祭



 霊檀室の前でお礼をもうさせて頂いておりましたら、ただここにお預かりしておるのが、ここにしておられる方の御霊達の数だろうと思ったんですけれども、沢山のこん位ばかりの高さのあのうこう写真を入れる額ですねぇ。立てる額です。そういう額が沢山こう並んでて、今中から写真を抜いた所だと言った様な感じでね、頂きました。そのうあちらには魂はない、あちらはどこまでももう御遺骨だけなんだと。御遺骨なんだと。
 いうなら魂はもう今日はここの御霊やで、皆さんの今代々の親の賛歌が流れる雰囲気の中で、一人一人の玉串を御霊様とこう交わされた。そのう何とも言えんもう何回も何回も、あのう「世々の親わが家の神わが神と心尽くしていつき祀らな」と言う、あの詩の文句を聞かして頂いて何回も何回も感動するんです。私が今日頂きました写真と言う事はどう言う事だろう。写真と言うものは真を写すと書いてありますね真を写すとある。
 言うならば今日このようにして威儀を正してお祀りを奉仕させてもろうて、皆さんもまた威儀を正して普通とお参りとは違ったお参りをなさっておられる。これが言わば真を写しておるこれが姿なんです。合楽の場合はどんな場合でも心を芯に致しますが、その芯に伴のうところの形が現れた姿だ写真です。真実を映し出しておる訳です。真、真には必ず真のおかげがかげのように伴うものだと、だから心だけでいいという事ではなくて、心が写真ね真を現わす形に現わす。
 それが私は慰霊祭であり又はこう春秋の御霊様、御大祭である御霊祭りであると言う風に思います。日頃とは違ったお祭り。今日は沢山の皆さんがこうした、真心こめたお供えを、まぁお取次ぎさせて頂いて、このお供えと言うようなものが真を現わした写真なんです。真を現わす姿なんです。その中にはもうまぁあると場合にはもう一心を込めて、真心を込めてで親なら親が子供が懸ける情念を、中に込めての言わばお供えなんです。それが尊いんです。
 私の方の形見は私の妹が今あちらを見て行ってくれておりますが、積霊であります私の義弟になりますのが、若くて亡くなりました。ちょうど戦時中のもう遅配欠配と言う時代に、しかもその胸の病気でですから栄養を採らなければならんけれども、栄養も思う様に採れないと言った様なま状態の中でございましたが、ある時にやまとと言う所に伯母が居りました。百姓しとります。それでただしと言いよりましたが、ただちゃんがおうどんが好きじゃったからと言うて、御うどんをゆがいて持ってきてくれました。
 もうその時分の配給のうどんと言えば、もう砂か土か入っとるとじゃないだろうかと言う様に、さくさくした様なとにかく美味しくないうどんでございましたが。もう真っ白いただしさんが自分の家で作って来たおうどんですから、それを妹がすめを作って食べさせた時に、もうこんな美味しいものを食べた事がないと、と言うてはむ。そしてもう幾日かして亡くなりました。それでもうそのただしの御霊様のお祭りの時には、もう必ずおうどんが出ます。
 あちらでまぁ共励会なんか毎月ある時にもやっぱり、こう皆さんにはおうどん頂いてからね、まぁこれは妹の思いでしょうけれども主人が亡くなるまで、あのうどんが美味しかった美味しかったというたその一心が、こうして今だいうならここに沢山お供えがあります。例えば30入っとっても5段来とりますから150から来とる訳です。その喜びを一人でも多くの人にこの分けて与えいというような、一つの情念の様なものがこの皆さんの思いお供えの中にあるんです。私の弟は大変トマトが好きでした。
 もうこの人のトマトだからあのう時にはもうどんなことがあっても、トマトだけはお三方一台お供えいたします。こりゃもう母がもうそうでした、私もすぐ下にみのるという弟が居りましたが、小さくして二つでしたか亡くなりました。亡くなり時に皆んなもうさっ死相ですから、皆んな私共枕元に寄っとりましたが、ポンが飲みたいというポンと言うのはラムネの事です。ポンがそれでそのうラムネ一口飲んで、それがもうものは言えませんから、こう押しやって父やら母にこうやって飲めとこう言う訳です。
 それで私共皆んな一口づつ頂いて最後に飲んでそのまま息が切れました。まぁだ私が子供の時でしたけどそれを覚えとります。そん時のポンのまぁ亡くなる時に頂いていったのを、まぁ親としてもこれは戦時中ラムネが無い時で、もうどうかしてラムネを捜して必ず母はラムネのお供えを致しました。必ずラムネはお供えいたします。無いものを無いから仕方がないではなくて、それをどうかしてどうならしていう、そのうそれが私は真を写す事だと思うんです。
 今朝から三橋みつこ先生がお届けに出てまいるに、今朝から得難いお知らせを頂きました、どういうお知らせを頂いたかと言うと、善道寺のあの久保山の奥さんいわゆる久保山先生の、お参りしてますねぇ久保山茂さんのお母さんになる訳で、久松和子さんのお母さんになる訳です。婦人総代を長く務める、お父さんは合楽でまぁ一番私の芯から御用して下さってありましたが。その久保山の奥さんがこの盛装をして見えとるところでした、合楽の時分に。
 あらぁ久保山の奥さんなもう亡くなっておられたところへと、思うたら前がもう広ろぉい川になってる、そこにまたドンブリとこうあのう飛び込んでいかれて、しかもそれが楽々と向こうの岸に泳いだ行かれるところを、お夢に頂いたというなどういうことだと思いますか。先だって4、5日前でしたか、えぇとこの前なったようなふう、全然それがお知り合いの方の中に小学校3年生で、小児ぜんそくで大変難儀しておられるという事を聞かれて、御神米を1体差し上げられた。
 おかげでそれから発作が止まった。ちょうど同んなじ日にこれはここの行本先生の義理のお兄さんになられる方で、北九州の方におられるとに尿道結石為に入院するというお届けが、10日ぐらい前にあっておったけれども、それがどうしてもその手当のしようがない。それでそのその朝いちものお婆ちゃんが参って見えて、あのうまぁおかげでというわじゃないけども、もう退院致しましたというお届けがあった。それはまぁ言うならまぁ病院におってもしかたがないからまぁ退院させられたことなんでしょう。
 其れから午後またあちらから電話かかって、佳代先生がまぁ電話受けましたところが、もう病院を帰るという寸前にね大きな石が出たという。大きな石ちゅうてからこっからでるとじゃけんこの大きさじゃなかろうばってんね。その当りでその話をしたらそんな事言う人があったんですよ。大きなちゃどん位じゃったじゃろうかちゅうごと、そげんことが尿道を出るとじゃから大きいちゅうたっちゃやっぱり、小指の先かかどうかじゃろ。それともこ先生とじゃろかってみようなところに、疑心暗鬼する人がありますね。
 まだおかげを頂いたその4時の研修の時にでした、一回も参った事のない人が御神米を1体頂いて、まぁだ合楽を知りもしないそのうおじさんが、もうこれは合楽の金光様のおかげと言わずにゃおれないという、おかげをがこりゃまぁその日だけの事じゃないけれども現れるけれども、大体どう言う様な御都合だろうかと、という4時の御祈念にその事を神様にお礼を申さして頂いて、心にお伺いする様な気持ちでおりましたら、神様から頂きのが彼岸のかなたと頂いたのです。
 久保山のお母さんが盛装して、今日の霊祭に併せてもろうて、言うならば御霊の世界、しかもそれは極楽のもう一つ向こうにある、合楽世界から合楽のお広前へ、もうしかも楽に盛装でと言う事は、おかげを受けておる御霊と言う事でしょう。盛装して。楽に楽に泳いでいくと言う事は、お徳を受けておるという、おかげを受けておると言う事でしょう。言うならばあの世この世を、自由に天翔ける国翔けるも出来るような、おかげを頂いておるのです。
 ね生前の信心が確かになら、まだまだ難儀がありました頃がありましたけれども。まぁそういうことであたまで取り立てを頂くように、信心がだんだん進んでまいりました。そして言うならば今こそ御霊の世界で火が着いておる事は、はぁあの世はこの世のためにあったんだなということだろうと思います。善道寺の久保山といやぁまぁこの辺きっての名門でございます。それが終戦と同時にまぁ大変難儀な事になてまいりました。
 そこから先生が御信心を頂かれる様になり、奥さんもま始めは大変な反対でしたけれども、それがもう自分がもう一途になって合楽通いを始められるようになりました。でそれっこそもう雨であろうが嵐であろうが、あるときなんか雨あられでハゼノ木なんか倒れておる下をこうくぐってきたもんだから、ハゼ負して顔がこう腫れると言った様な事があった。ある時なんかもう雪でもうとにかく、あのう勿論自転車なんかにゃ乗れない様な中を、朝参りをして来る時になるほどなんでモンペです。
 そのうお参りさして頂き頂いて、はぁこの道を毎朝主人久保山豊先生がここを通ておるんだと思うともう、姿を思い浮かべながらせんでした。と言う様に打ち込んだ信心が出来られた。そしてあの世からこの世を通して御霊の世界合楽世界に住むことが出来る、さぁ今日は合楽のお祭だといえば合楽のお祭に、言うならばこのお祭りを有り難く受けることが出来る。そして思われる事であろうあの世での修行は、この様にせつなるすがたが有り難くあのよがこの世で。
 この世のこの合楽世界に住まわせて頂く事のための修行であっな、私がいつも言うこの世はあの世のためにあるのだと、この世はあの世のために信心し真の信心を頂て、信心の喜びを持って行かなければとてもとてもあの世と言う所は、これは私の知った限りの御霊の世界ですけれども、御霊の世界は暗黒だ。その暗黒の世界に私共が行く時に、もう光を持って行かなければ行ける所ではない、自分の心の中に不自由しないだけのほか理を持って行けれる信心を、この世でしておかなければ出来ない
 だから皆さんの遺族の方達もそう言う事は全然わからない御霊ばっかりであった。そりゃもう本当にまぁまぁぐづぐづりどうして、そんなに分からんかと言う意味で分からない御霊があったり、なんかの御霊があったり言うならばもうこの世は暗黒でありしの、暗黒が当たり前のいわばここで皆さんが言う、この世は苦の世だ苦の世界だともう思い込んでしまっておる様に。暗黒の世界に行ってもこれがこの世と言うもんだと、ふりみた人たちが思うておるもんの中から、光の世界へ導こうとするそれが合楽理念である。
 朝晩にここで頂くところの合楽理念をもって、魂、御霊達がいうならば一生懸命信心をいうなら、喜びの御霊安心の御霊としての精進をしておる。私共には生身と言うものがあって痛かったり痒かったり眠かったり、いろいろあるのですけれども、御霊だけはもう心だけの世界ですからね、だから分かり出したらもういわゆる私共が、我情我欲が邪魔をするような場合がありますけれども、そのその事が分かり出したらもう一途に、御霊の世界での生活が安心と喜びの光に満ちた、世界に住みたいという精進を始めます。
 これは何時も霊祭を仕える前にはこの合楽理念をいわれるまでは、やはりどんなにしても3時間ぐらいは12:00からいつも坐りょうりました。殆どもう寝らんなりに朝の御祈念になるちゅうな事もありました。もうそれはね今日は御霊のお祭を受ける事のための、例えばこうお導きをしてあげても言う事きかん、わからん。と言った様なのに一人一人言うならば説得しなければ分らなかったのが、この頃ではね言うならば皆さんが、商売は合楽理念をもってする外はない。百姓は合楽理念をもってする外はない。
 ともう合楽理念に徹して行かれる様に御霊も、御霊の世界でのいわば光明世界に住む事のためには、もう合楽理念をもってすることはないと思うて朝晩の御理解を頂きますから、心が、魂がいよいよ肥えていくのです。信心をしておかげを受けると言う事は根が成就事がおかげではなくて、神様の願いが成就する事なのだと、こんなに熱心にこれだけ一生懸命な信心させて頂いておるのに難儀が続くばかり、それは神様が彼岸のかなたへ誘うて下さろうとするはたらきなのだと。
 願った事が願いが成就すると言う事もおかげならば、右と願って左になる事も又おかげであると分かると言う事が信心なのだ。しかもその彼岸のかなたを目指していくのだ、私はその事が彼岸のかなたと頂いた時に、分かりませんでしたから、どの事だろうかと思ったら悲願と頂いた。悲しい願い。これを私は神の願いと思いました。神の願いは小児喘息が治ってくれ、尿道結石があっという間に流れる。と言う事などじゃない。それは結局神の権威に掛けてそういう奇蹟もまた合楽では沢山ある事なんです。
 はぁ神様のはたらきはもう恐れ入るなぁと信心がなくても、恐れ入ってそこから真の信心を目指していく。とんとん拍子に合楽にご縁を頂きゃ何もかにも願う通ぉり成就すると言った様な、事のあって良かろうはずがない、神様の願いが大きければ大きいだけまた修行も大きい。この様にして神様が私共を導いて下さるんだ力をつけて下さるんだという事が分かって来る時に、おかげで信心が出来ますと言う事になって来るのです。
 本当にね合楽で信心の稽古をさして頂いて、本当に難しい至難と例えばお徳を受けると言った様な事は、大変な難しい事のようにまぁ思うて、まぁそりゃお徳なんか頂かんでもええもうおかげ頂きゃええ。こりゃ私共もそうでした。ところが段々分からせて頂けば頂くほど、神様の思いが分かれば分かるほど、神様の悲願に応え祀らせて貰わなければっという心が生まれて来た。それには神の思いが分からにゃいけません。神の心が分からなきゃいけません。神の心が分かる神の心に添いまつる。
 今朝からの御理解にも、ここへ参っても神の言うとおりにする者が少ない、おかげは途中で落としてしまい、と言う御理解がございますよねその御理解にもとづいてでしたが、神の言うことは道で落としてしまい、と言う事は聞いて帰ってもそれを行じないと言う事だ。ねぇはりゃ親先生任せ親先生任せ、親先生が右と仰るから右とした左とした、という様な行き方はまぁ言うならば、今朝の御理解をから言うと神を言うならばなんと言うでしょうか。まぁ神様を便利屋さん様に思うておると言った様な御理解でしたよ。
 例えば久留米に集金に行かんならん、まぁ言ったっちゃ向こうが居らんと馬鹿らしいけん送らして行こう、今日は久留米に集金に行こうと思ようりますがどうでしょうかち、なら今日は行かんがよかばいち、今日は行きなさいいやもう無駄だね、そう言う事に神様任せになっとると言うのでは、神様を只便利屋さんに使うだけでしょうがね。この頃私がそう言う様な意味でまぁ段々信心も分かった人には、あんたが御祈念して自分で頂きなさいと言う風に申します。
 そういう信心が例えば一生続いたところでらちがあかんと言う事であります。神様を利用するだけの信心神様ちゃもう、おかげを頂くための神様の様に思うておる。神様の心が分かって言うならば神も助かり氏子も立ち行く、いわゆる合楽世界が目指させて頂くと言う事が、私しゃ合楽できせつされるところの教えだと思います。そこでねその教えを本気でよういさせて頂くと信心が楽しゅうなるです。楽になるです。いやそうせずにゃおれなくなって来るんです。
 今朝から宮崎の方から沢山おまいりがあっとりますので、ここで丁度3ヶ月あまり修行しました、木下くめさまの出身の方、この人はもうとにかくまぁ親を泣かせたというか、親の言う事を聞かん、まぁだ高校も出らんぐらいにうえきさまがそのう、まぁ言うならば悪と言うは悪と言うわけじゃないでしょうけれども、まぁ親の言う事を聞かない親としては一人息子だから、どうぞおかげを頂く様にと言うまぁ一生懸命の願いが、ある事から本人が合楽で修行したいと言うて来た。
 御父さんは事情がって別の所で、お母さんは学校の先生をしとられる、お父さんは田舎の方で養豚をしておられる。帰ってそのお父さんにその事を話したら、はぁあれが合楽ちゅ所ば隠れ蓑にしとるとじゃと、言うてもてんで受け付けられない。先だってからとにかく帰ってまぁもう自分のこうして、だんだん変わって来とる様子を父にも見てもろうて、岳父を何とかして導きたいとこういう。それであのうお父さんの所へいってそのう養豚の御用をさして頂く。
 そうして暇を見つけては神様の話をすると、むごうお父さんが腹かきなさる怒んなさる。これが訳も良く知らんで神様てんなんてんちゅてわけでしょう。そこで言うならば木下君が思うた事は、ははぁここが黙って治めるとこだなぁっと、もう生神金光大神様を心から唱えて、そして毎日一週間たち10日たちして行く内に、こらやもう昔の息子じゃないと言う様な風に感じて来た、あおしたら合楽ちゅとこは何処にあるかとか、合楽ちゅとこはどげな話をしなさるかとかそげな風に聞くようななった。
 昨日もこちらに向けて帰って来ると言う事になったら、もうあちらにあるいろんな産物をね、いっぱいこれもお供えしてくれこれもお供えに持って行ってくれというて、まぁいろいろとはぁお供え物をことずかってきて、もう言うなら父ももうその家族中で信心が出来る一歩手前にある。もうこの頃先生とても私有り難いと思う事は、昔の事は言わんが悪い友達がいっぱいおる訳ですから、電話が掛かて来たりいろいろするわけです。
 好かんこっちゃなくてやっぱり一緒にこう、それに応え様として電話口に出ると電話口においさみが着くそうです。もうビックリしてそのまぁ改まった生活を一生懸命精進さして頂いておる。だからね電話口でおいさみがつく間はよかばって、つかんごとなったらいかんばい、また修行ばいっちょ本気でうやらなきゃいけんよと言うて、まぁ今朝から話した事でしたけれども。とにかく3ヶ月の間にいうならば教えが身に、こういう生き方では駄目、こう言う人間は生き方をすることが本当。
 人間の本当の幸福とはここから生れて来るんだと言う様なものが、まぁ彼自身に解って来たと私は思います。とにかくね教えを頂くと変わらずにはおられんのです。しかもそれが楽しゅうなるです。有り難うなるです。ただお伺いをしてお伺い通りにしたと言った様な信心から、それこそ舟にも車にも積めぬほどの神徳があるという、御神徳を頂くと言う事は、神様の言うならお言葉を生活の上に行じ表して行く事なんです。本気でその気になったらもう確かに一生が生まれてくるです。
 今度の婦人大会が9月の3日に行われ、今度は5周年と言う記念の年柄に当たるそうですから、皆さん一生懸命でいろいろなさっておられる。大会のまぁ言うならば大会テーマを頂きたいと言うので、お許し頂いたら不平不足を言わんですむ思わんで済むかね、不平不足がない信心生活を目指してじゃったね。不平不足のない信心生活を目指して、そうで今まで聞いた事のある感じがするし、誰ぁれでん充分知っとる語とあるけれども、この言葉が非常に皆さんに響いたんですね。
 完部の方達に度々会合するたんびにそのことを、それで幹部の方達がその当日の、言うなら班別懇談なんかの時になにをどう言う風にお話をしようかと、と言う事を何ぁにも言わんこのことばいっちょ本気で9月3日まで行じよう、不平不足を思わんですむ信心不平不足うを言わんですむ信心を、もう今日からもう只今からと言う様な感じで、行じておられる方達が毎日もう本当に不平不足を思わんですむ言わんですむと言う事は、なんという有り難い事だろうかと。しかもそこにはじっとこう実証が生まれて来る。
 試にもうこの生き方はねこりゃもう一生涯これに掛けなければならんと、言った様な事が段々分かって来ると思うです。その事に本気で成り行き尊ぶとか土の信心でとこういうけれども、知っとるだけ分かっとるだけ時々それを行じよりますじゃなくて、それに徹すると言う事なんだ信心とは。それがね私は真を写すことになる。いわゆる真がその心がそのままにおかげになって表われて来るのが写真です。
 御霊様達に寄せるその私共の情念と言うか思いと言うものがね、例えば先ほど私のこの御霊達の事は例を申しました様に、どんな事があってもどうしても霊祭にゃこれだけのという、これをというその思いがね私は真だとこう思うです。今朝から朝倉の方から参って来る平田と言うご婦人が、今日はもうどうしてもあのう勤めの具合いでお参りできませんから、今日お参りをした来たとこういう。あぁそうね私し御理解を頂いとったら今話すと、今朝のね神の言うことは途中で落としてしまいと言うあの御理解であった。
 またそこへ聞き終わって、御理解頂き終わってから出て見えてから、今日はあのう、しんぼういうて、半日であのう後を休みにさして頂く様に、お願いをして1時のお祭に間に合う様に、御参拝のおかげを頂かなければならない、本当にお参りして、御理解頂いて良かったというな事言うて帰り、恐らく今日また引っくり返りここへ、1時のお祭に間に合う様に、参って見えとると思うんですけどもね。自分が心をそこに一心を向けたら、出来る事なんだ。
 それを平気げねもうただお祭にゃ間にゃ間に合わんけど、朝の内に参っときゃそれでよかろと言った様な事、徹底しないところにね実証は生まれません。今日はどんなことがあっても何月何日の霊祭には、どうでもと前々から祈りに祈り願いに願わして頂いての真が、ここにこうして表わされると言う事が、私はね真を写した姿である真を写したこの様なお祭であると言う風に思います。それがならおかげになって御霊の喜びともなろうね、私共の上にもまた真を写す、言うならばおかげがそこに現れて来るでしょう。
 私共信心の稽古さして頂いてただ自分の我情我欲を満たすことが信心ではなく、願ってっも一生かけても自分の思いが成就しない時には、もちろん真がまだ欠けておると言う風にも思わなければならんけれども、神様の願いが成就しておると言うた、いわば悲願のかなたに神様が導いて下さろうとするはたらきなのだ。その悲願のかなたとは神の悲願だとかと、悲しいまでも願うておられるせっかくご縁を頂いて、せっかく合楽世界にも住まわせて頂けるまでも、今合楽で頂いておるのだからそれをマスターして。
 それを生活の上に頂いて、確かにこの世はあの世のためにあったんだと、あるんだと分からして頂けるような信心を身に付けて、おかげを頂きたい。これはもう人間氏子特に合楽にご縁を頂いた人からなきゃこういう話は聞かれんのだと。合楽でいるような神様の思いを悲しいまでも願いを聞いたものはと、信心を豚やら馬やらにしてくれと言うても出来んのだと、震源に呼び掛けても知らぁん顔してるんだと。たまたま合楽に縁を受けたという事で、神様の願いをこうやって楽しむ様に皆さんに聞いて頂いて。
 私共でなからにゃきれも出来ない信心が、神様が御神徳を下さろうとする、神様が御神徳を与えてそれこそ、あの世紺の夜を通して幸せも下さろうとしておっても、言うなら受けものなしには神徳が渡されんのだと。しかもねそれは人間でなからなければ信心は出来んのであり、人間でそこに気づいたものでなからなければ、御神徳は渡されんのだ頂けんのだと言う事をです、私共一遍よくよく分からして頂いて、しかも合楽にご縁頂いたと言う事は、そういうおかげを頂いてその心の光とても申しますか。
 自分の周辺に潤うて行く様なおかげ、言うならばあの世この世をね自由無碍の世界として生きる事のために。この世での言うなら真の信心真の修行させて頂く、不平不足のない信心生活を目指さして頂こう。そして不平に思うておった不足に思うておった事が、神様の願いであったし悲願であったし神愛の現れであったと分かるから、不平ではない不足ではない、お礼を申し上げるばっかりの生活がそこにあるのです。
 その私は御教えをいよいよ行じると言う事が、神の言う事を聞くと言う事が、神の言う事を聴く言う事ではなかろうか。右にしたがえいでしょうか左にゃえい、そりゃね皆さん凡夫の事ですから分かりません、ですからそれはお伺いをして御神のまにまに、動かして貰うと言う事が有り難いんですけれども、ただそれが我情から出る我欲から出るだけであったら、言うなら神様を便利屋さんに使うておるようなものであるって、いやぁそれもあって良いこの頃先代のあのう病院の先生がお話しになってるように。
 我情もあっても良い我欲も絡んでいっていいけれども、そういうお伺いもさして頂きことは無いけれども、信心が育っていかなら、先生の言葉はこれで小学校から中学、中学から高校大学と言う風に進んでおっても、自分と言うものが分かるようにならなきゃいけない。入院を始めたものは病院のいうなら売り上げの一割だけはお供えしますと。有り難ぁくお供えが出来た。ところが段々病院が繁盛して5人まで出来る様になった。何千万と言う様な収入があるようななった。
 そそその一割ちゃちゅっとこれちったこりゃ多過ぎゃせんじゃろうかとというごたる、こりゃ誰ぁれでもそう言う様なものがある訳です。始めの間は僅かじゃった。もう今日最後に私共そもそうじゃった、財布の中に入っとるとが全部がお賽銭であった。けれども段々それが多くなって来ると、なかなか出来ない。けれども神様への約束だから惜しいけれども、勿体無いけれども御用に使わしてもらう。そこから一心が生まれて来る。そして自分の信心がどの程度に進んで行っとるかと言う事を感じておられる。
 最後にいうておられました、段ボールのなかに一万円札を一杯詰めて、金光様の前にドンとお供えが出来る金光様がビックリしなさる様なお供えがしたい。素晴らしいでしょう皆さんね、そりゃまぁ夢のような事ですけれども、その願いがね言うなら小学校から中学校、中学から高校と言う風に進んで行っておるのですから、それが成就する事になるのです。言うなら神も喜び氏子も喜びと言う喜べるという信心世界が開けてくる。その向こうに合楽世界も言うならば住まえれる様なおかげを受ける事が出来るのです。
 今日は皆さん一つあの代々の祖を何回も何回も繰り返して、うたっておりましたから皆さんも覚えられたでしょうけれども、代々の親はわが家の神我が神と心つくしていつき祀らな、心つくしていつき祀ることが出来たかどうか、ひとつ思うて見て、言うならば写真です。真を写す生活にお互いならせて頂こうと精進すると言う事が信心であり、又教えはそこを説くのです。出来るぬ思うておった事が不思議に出来る様になる。それこそ今のきょうが木下君じゃないけれども、最近リズムを感じると言って居る。
 生活の中に、だからそのリズムをいよいよ聞いて行くのですから、知らんと思うておった難しいと思うておった事が、こう楽に出来て行く出来て行く事がまた楽しゅうなって来る、有り難うなってくると言う事なんです。天地の言うならばリズムをねからめどうしにからめてあるが、合楽関係者の上にあると思うんです。だからそれを聞き取るね一つ信心。信心生活のための真へいきょう信心不平をお言わん、思わんところからお礼を申し上げる事ばっかりに一日であったと言う様な一日を目指さして頂きたいと思います。
   どうぞ。